安西寺は、もともと福田寺という寺だったが、明治四十三年、馬場町にあった安西寺と合併して秋月山安西寺となった。
福田寺には次のような話が伝わっている。
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| 安西寺 | 流れの井と歌碑 |
徳川家康公が鷹狩に出かけた時、福田寺に立ち寄ったことがあった。
その時家康公が辺りの景色を見て、京都の丸山によく似ているといったため、その時お供をしていた後藤庄三郎光次(金銀改め役)は京都から僧侶を呼び寄せて、お寺を建て、この辺りの地名を丸山とした。
このため福田寺は、丸山寺とも呼ばれるようになった。
ここを題材にした家康公の和歌で
松高き 丸山寺の 流れの井 幾歳すめる 秋の夜の月
という歌がある。
ちなみに、歌に出てくる「流れの井」は賤機山から滲み出てくる水で、名水百選候補となった名水である。
天澤寺(てんたくじ)は今川義元の菩提寺で、氏真が父の供養のため建立したが明治初めの廃仏毀釈により廃寺となった。そして義元を祀る今川廟は臨済寺に移築された。
天澤寺は、今川、江戸時代から静岡の印刷文化に深く係ってきた寺であるが廃寺により印刷に関する資料は富春院に引き継がれた。
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| 富春院 | 「尚志」の石碑 |
また、富春院には明治の教育者で静岡学問所教授の中村敬太郎(正直・敬宇)が一時寄寓、近くに邸宅を構えていたところから、楼門の扁額、「尚志」の石碑、著書を所蔵している。
石碑には「此処を距る北百二十歩、左に入る三十歩」と中村邸への案内が刻みこまれている。
現在、中村正直の邸宅があった場所は駐車場になっており、1角に目立たない石碑が立っているが頭部は地震で欠けている。
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| 中村正直旧宅跡の石柱 | 案内板 |
中村は明六社の主要メンバーとして啓蒙思想の普及に努めた人物である。
幕府のイギリス留学生監督として渡英、帰国後は静岡学問所の教授となる。
イギリスから帰る船の中で、スマイルス箸「セルフ・ヘルプ」に心酔して、静岡・大岩の地で翻訳に着手し、明治3年「西国立志編」として初版した。その後、ミルの「自由之理」を翻訳、出版している。
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| 西国立志編(富春院所蔵) | 明治4年の翻訳・出版 |
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| 中村正直 お茶の水女子大学 初代校長の肖像画 (お茶の水女子大学所蔵) |
中村は、自由民権思想の普及に努めた人で、女子教育や盲聾教育の向上にも貢献し、東京帝国大学教授、貴族院議員を歴任した。
今川義元は、桶狭間の戦いで戦死し、遺体は家臣に担がれて駿府に向かった。だが東三河の豊川の大聖寺に胴を埋葬(胴塚)、首だけを持ち帰り天澤寺に葬った。
天澤寺が廃寺になったことから、富春院の一角に首塚という慰霊塔がある。
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| 今川義元の首塚 | 今川奉賛会の供養祭(豊川・大聖寺) |
胴塚のある豊川の大聖寺では、今川義元公奉賛会をつくり、いまなお、5月の命日には供養祭を行っている。
昭和49年7月7日、台風8号は静岡県下を襲った。
午後10時40分、大音響とともに裏山が崩壊し、瞬時に8戸の家屋と8人の人命を奪う大惨事が起こった。
ここには、七夕豪雨の慰霊碑が円山町内会の名で建てられている。