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Cゾーン  臨済寺付近


く臨済寺>


臨済寺は今川氏親が三男・承芳(後の義元)のため、亡母北川殿の住居跡に創建した善徳院を前身としている。1536年氏親の長男・氏輝が死去し、この寺に葬られたのを機に大竜山臨済寺と名を改め、今川家の菩提寺となる。

仁王門


武田、徳川の兵火によって臨済寺は二度の焼失を受けた。


現在の本堂は正親町天皇の勅命を受けて天正15年(1587)に徳川家康公が再建したものだ。


この寺は、今川義元の真筆の発給文書や今川の人質であった松平竹千代(後の徳川家康公)が幼年期に学習部屋として使っていたという「手習いの間」がある。


家康公の養育を任されていたのは、当時この寺の住職であり、今川家の軍師でもあった大原(たいげん)雪斉という人物で雪斉は静岡の出版事業にも大きく貢献している。

今川義元の発給文書 大原雪斉画像

今川廟:

今川義元は氏親の子で永正16年(1519)に生まれた。幼児から仏門に入り善徳院(後の臨済寺)で修行した。天文5年(1536)4月、兄氏輝が亡くなったため、義元は、今川家9代目の守護大名となる。

本  堂

その後、桶狭間の戦いで義元は戦死するが、その遺体は今川の菩提寺であるこの寺に埋葬することが許されず、大岩にある天澤寺に首塚が建てられた。

胴塚(豊川・大聖寺)


また胴体の方は牛久保町(愛知県豊川市)の大聖寺に埋葬され胴塚が建てられた。


地元では、今川義元公奉賛会をつくり、今なお命日の5月には供養祭を行っている。

その後、天澤寺は、明治の初めに廃寺となったため、明治24年(1891)今川廟は臨済寺に改葬された。


静岡浅間神社と臨済寺:

臨済寺の正門は山田長政が人々に募金を促し、建築したものである。ここにある仁王像は元々静岡浅間神社にあったもので明治に神仏分離令が出された際、臨済寺に移された。

臨済寺の仁王像

この時、八千戈(やちほこ)神社に安置されていた摩利支天像や金印なども運びこまれ、今でも臨済寺が管理している。

初代静岡県令(知事)関口隆吉の墓

本人の遺言により墓地自体は小さく質素。左右に親族と思われる墓が立っている。


<関口隆吉の生涯>


関口隆吉は、天保7年、幕府与力の子として生まれた。隆吉は、幕臣ながら尊王攘夷派であり、慶応3年九段坂上を馬上で通り過ぎて行く勝海舟を襲った。

関口隆吉の墓(臨済寺)

幸い、刃先は鐙(あぶみ)にあたっただけで、海舟は無傷ですみ、共通の友人であった山岡鉄舟の仲介もあって、ここから勝海舟との交流が始まる。

海舟はこのエピソードから隆吉のことを、鐙という字を使い「鐙斎(とうさい)先生」と呼んでいたという。

ちなみに鉄舟と隆吉は生涯通じての盟友同士であったようだ。

隆吉は、明治8年12月から明治14年2月まで山口県令を務めた。

明治9年に起こった「萩の乱」の鎮圧を指揮したのも彼である。

隆吉の静岡での主だった活躍をあげてみよう。

まずは徳川慶喜が駿府に移住するのにあたって一役買っている。

陸路では危険だと判断し、軍艦で護送することになったが、当時海軍を仕切っていたのは旧幕臣、榎本武揚であった。

五稜郭の戦いで有名なことから分かるとおり武揚は典型的な佐幕派であり、慶喜の護送を任せるのに不安の声も上がったが、隆吉らの説得に武揚は快く快諾、何事もなく慶喜は駿府に移住した。

明治2年には、江戸城内にあった徳川家の祖廟を静岡・久能山に移す作業を鉄舟と担当。

また、職を失った旧幕臣たちの大量移住に伴った殖産事業として、金谷開発事業を命じられる。

明治3年から牧の原台地の本格的な開拓事業が始まり、これに着手。

現在の菊川町月岡に移り住み、開発に心血を注いだ。また、富士裾野の開墾や清水湊の開発などを通じて清水次郎長とも親交があった。

明治22年4月11日、隆吉の乗った列車が安倍川鉄橋を渡りカーブにさしかかったあたりで、前方から来た貨物列車と正面衝突し、3人が即死し15人が重軽傷を負う惨事となった。

この時隆吉は、崩れ落ちた鉄材に足首を挟まれ、その傷口が化膿して左足切断の手術を受けることになつたのだが、「親から貰った五体を切り離すことは出来ない」と手術を拒否、結局この時の傷が原因で隆吉は、破傷風を起こし死亡した。

その墓は臨済寺にある。


<鴛鴦(おしどり)塚>

鴛鴦塚は、臨済寺の墓地のはずれにある生垣の狭い囲いの中にひっそりと立っている。

明治4年6月、臨済寺門前で若い男女が情死しているのが見つかった。

男は和菓子屋の婿、女は二丁町の遊女薄雲と分かった。

咲そめて 早散りかかる 桜かな
散る花や 見ているうちも ひと昔

二人の辞世の句である。

当時の臨済寺住職は学者の今川貞山で、書置き通り二人を大桶に一緒に入れて葬った。


また、近所に住む静岡学問所の教授中村正直は、はなむけに「情死論」を書き、住職とともに懇ろに弔う。

当時の有名学者二人の同情に世間が注目した。


<城北公園>

この地には、かって旧制静岡高等学校があった。

旧制静岡高等学校は、大正11年8月、静岡市の北郊、安東村に創設された。その後,戦後の学制改革により昭和24年、静岡大学に改組され、文理学部が発足した。(後に人文学部、理学部に分離)

公園内には、畄魂石版碑、静稜輝像(由来石板)、寮歌碑があり、在りし日の青春の学舎を回顧できる。



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