ホーム | 駿府静岡歴史楽会 | 静岡市と家康公 | 駿府ブログ |  歴史楽会の歩み |
ホーム >服織の里と木枯らしの森

服織の里と木枯らしの森


<服織の里  歴史探索ウォーキング>

駿府静岡歴史楽会は、2006年11月18日「服織の里と木枯らしの森」をテーマに歴史探索会を開いた。
まず静岡市藁科公民館で行われた黒澤脩講師の講演から報告する。

ここ藁科郷の成り立ちは「牧」の地名があり馬に関する伝承があることから馬や牛の飼育地であった。


また海岸平野を支配する豪族たちの文化圏と山より地域を支配する豪族との二つの文化圏があり、産物の交換する場所として「安倍の市」があったと推定している。


山よりの地域に属する藁科郷では織物を生産していたことから「服織(羽鳥)」の地名が生じたという。


一方、中世の記録を見ると藁科川と安倍川は別々に独立して流れており、安倍川を境に「安西」、「安東」の地名が出来た。二つの川が合流したのは、徳川家康の土木工事に端を発している。従って中世では、安西は藁科と同じ文化圏であった。

また、昔の官道、東海道は日本坂を越え手越より藁科川と安倍川を渡り駿府の国府に至った。しかし川の増水により、木枯らしの森を通り建穂(たきょう)を経て安西から国府に入ることが多かった。ここから平安期の文学などに木枯らしの森や建穂寺が登場することも増えた。


<木枯らしの森>

木枯らしの森は、藁科川と安倍川が合流する地点からやや上流にある小高い島で、木々に覆われている。

清少納言の「枕草子」には「森はうへ木の森、石田の森、木枯の森・・・」とかかれ、有名な歌枕の森となった。この木枯らしの森は「山城国の広隆寺の東にある木島神社の森」だという説もある。

これに対して「古今和歌六帖」の(新後拾遺集)で

人知れぬ おもひするがの国にこそ  
          身はこがらしの森は  ありけれ
と詠まれており、清少納言は「古今和歌六帖」を座右の書として使っていたといわれている。

また、江戸中期の国学者「本居宣長」は、駿府の国学者野沢昌樹の願いにより撰文をつくりあげ「木枯の森碑」を完成させた。撰文では木枯らしの森の荒廃を再興させた羽鳥村の名主石上長隣(藤兵衛)を称えている。

島の丘の上にある神社の脇には、本居宣長の撰文が彫りこまれた石碑が建っており、人々のこの森に対する思い入れを物語っている。

木枯らしの森を謳いあげた幾つかの和歌を紹介する

新古今

消わひぬうつらふ  人の秋の色に  
           身をこがらしの杜の下露    (定家)
新後拾
人しれぬ思ひ  するがの国にこそ
           身をこからしの森は有けれ    (読人いらず)
夫木(そぼく)
やよやまて  今はかきりの秋の色は
            もみじにかきる  こからしの杜    (安嘉門院高倉)
<幻の建穂寺>

「幻の建穂寺」「建穂寺編年」という2冊の本がある。これは平安期から今川、江戸時代に駿府で最も栄えた大寺の一つ建穂寺を記録した写真集と寺史である。


建穂寺(たきょうじ)は、静岡市西部の服織(はとり)の里にあったが明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で破壊され更に火災で焼失し廃寺となった。

残された仏像等は町内を中心につくられた「建穂寺の歴史と文化を知る会」の手によって、保存、維持され、現在は建穂町内会が管理している。

広報活動も含め、このように町内の人たちの努力で保存活動が継続しているのは稀有(けう)のことであろう。


伝承によれば、建穂寺は帰化人秦氏が服織の里に入植したときに氏寺として建立したと考えられている。
建穂寺の伽藍配置図
作図 杉田容章氏(元静岡市児童館指導主事)


境内は神仏混淆(しんぶつこんこう)で延喜式神名帳に登録された建穂神社もある。

教理は真言密教で檀家を持たない学僧の修行の場であった。



元禄16年(1703)幕臣三嶋静左衛門は、「駿府巡見帳」に建穂寺の貴重な記録を残している。

それによると建穂寺は仁王門を入ると18の塔頭(坊で21坊ともいう)が参道の両側にずらりと建ち並んでいた。

仁王門には、いかめしい金剛力士像が表側に立っていた。

しかし仁王像は、延亨四年の火災で焼けている。

現在ある仁王像は、かなりあとの寛政三年(1791)に駿府の豪商が寄付したものである。



寺の門より六町登ったところに、寺のシンボル観音堂があった。ここに至る参道に駿府の豪商が寄付した「丁石」が一町毎に建てられていた。この丁石は現存しており、これほど大きいものは、静岡県下には少ないという。

6基の丁石

境内には多数の桜があり桜の名所になっている。
「金玉集(平安後期の歌集)」には京の公家出の大弐が贈った桜千本を詠んだ歌が残っている。

我がたまの光と妻をむすびてよ 千本のさくら ちぢに咲きなば
阿弥陀如来像 大日如来像


境内の奥に客殿、阿弥陀堂などがあり信仰の場であった。山を登ると観音堂があって、行基作と伝えられている秘仏千手観音菩薩立像が安置されている。

現在、町内で管理する観音堂には大日如来像、阿弥陀如来像、不動明王像、観音菩薩を護る二十八部衆など六十余の仏像が安置され、駿河三十三所観音霊場巡りの信者の信仰を集めている。

千手観音菩薩像

今に伝わる静岡浅間神社の古式稚児舞楽は、建穂寺の稚児舞いが源流であるといわれている。

今川時代の絶頂期、今川義元全盛の弘治2年(1556)公家の山科言継(やましなときつぐ)は駿府に下り、今川家に寄寓し「言継卿記」を残した。

2月18日、中御門宣綱(なかみかどのぶつな)とともに乗馬にて建穂寺に行き、本堂で稚児の舞い、万歳楽、延喜楽などを観覧した。
2月22日、雨で延引の廿日会祭(はっかえさい)が行われる。桟敷で一同酒宴。稚児の舞いや僧7人の二の舞が演じられたがなかなかのものだった。

静岡浅間神社の古式稚児舞楽

つまり雨で安倍川が増水し稚児たちが浅間神社に到着しないので会が延期になっていたのである。

その後、今川家の滅亡で駿府の町も戦火に蹂躪(じゅうりん)されたが、浅間神社の再建、建穂寺の保護に努めた徳川家康は稚児舞楽を好み廿日会祭に奉納した。

このように建穂寺は、徳川幕府の庇護(ひご)のもと、寺領480石の破格の待遇を受けていた大寺であった。
因みに、二代将軍秀忠の生母西郷の局の菩提寺宝台院は、寺領300石、大岩の臨済寺が100石であったことから、徳川家康と建穂寺との間の深いかかわりを物語っている。

しかし、明治維新で神仏分離いわゆる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の狂乱の嵐が全国に吹き荒れ、寺は破壊され混乱した。それに輪をかけ明治3年(1869)建穂寺は、火災にあい焼失した。幸い多くの仏像は無事だったが、寺は再建できず廃寺となった。

鈴木信男氏 渡辺功氏 鈴木将夫氏



それから122年後の平成3年、建穂町内の有志を中心に「建穂寺の歴史と文化を知る会」(代表 鈴木信男)が結成された。



そして埋もれていた寺の存在を世に出そうと写真集「幻の建穂寺」を、更に平成11年には寺史「建穂寺編年」を出版して寺の復活を念じている。



この保存と維持管理の活動は、現在、町内会の手にゆだねられているが、行政等の援助が無いという現状に先行きの不安を案じる声もある。

歴史探索会に参加の皆さん

【「幻の建穂寺」の資料提供】
「建穂寺の歴史と文化を知る会」 代表 鈴木信男
静岡市建穂519-1 電話054-278-6276

解説:黒澤脩
撮影:柴山健一


Copyright © 2006 駿府静岡歴史楽会