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天正期の家康公と駿府

今川政権崩壊とともに、岡崎城に戻った家康公は武田信玄と大井川を境に対立した。
やがて武田氏は天正3年(1575)長篠の戦いで壊滅的な打撃を受け、最後は天正10年(1582)甲斐の天目山で滅亡した。

この戦功で、家康公は織田信長から「三河、駿河、遠江、甲斐」の四カ国の支配権を与えられた。

だが「本能寺の変」が起こり、めまぐるしく変る天下を握ったのは豊臣秀吉であった。家康公はこの後に信長領の信濃を加え五カ国の領主になった。

天正13年(1585)家康は浜松城から駿府に移った。家康公にとっては2度目の駿府時代である。当時の駿府は相次ぐ戦乱でかなり荒れ果てていたと思われる。

この間の出来事について「家忠日記」は次のように記している。

「天正15年 1月26日  駿州普請のため、浜名まで出候
10月12日  本城堀普請候
11月 4日  このくるハ(ニの丸)石かけ候
天正16年 3月29日  もち舟(用宗)より才木(材木)とどけ候」
駿府築城工事は天正15年(1587)1月26日から始まり、天正17年(1589)5月25日にほぼ完成している。

それは今川時代とはまったく異なる城であった。

家康公は城や城下町の復興より庶民にかかわりの深い寺社の再建に力をいれた。
まず天正10年(1582)臨済寺を再建した。これが現在に残る本堂(国の重要文化財)である。

静岡浅間神社の修復は天正11年(1583)で、家康公は駿府の住民の心を引きつけようと努力した。その後に本格的な造営が行われた。

また駿河の大寺といわれた建穂寺(たきょうじ)にも本格的な保護を加えた。

天正15年(1587)に書かれた朱印状には、「当寺の庭にある、木、石、それに山林、門前の竹木を伐り採らしむる事、堅く禁止する。違犯の者は厳しい咎めに処すべきである。」と 禁制が明示されている。

これは当時駿府城築城工事で用材を勝手に持っていく行為が多発したため、禁止して寺社を安堵させたものと思われる。
静岡浅間神社



このように、徳川家康公は駿府の復興に尽力したが、天正18年(1590)2月、豊臣秀吉の小田原征伐には先鋒として出陣し、そのまま駿府城には戻らなかった。




論功行賞として関八州を与えられたため、小田原からそのまま江戸に向かった。


築城の知識と財力をかけた駿府城を他人に明渡すことは、家康にとって心残りの事であったにちがいない。だがそれは天下人となった豊臣秀吉の命令だったのである。

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