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駿府大御所時代

慶長5年(1600)徳川家康公は、関が原の戦いで石田三成を破り、天下の実権を握った。
そして慶長8年(1603)征夷大将軍になり江戸に幕府を開いた。

東海道図屏風(静岡市教育委員会蔵・部分)

その2年後、突如、家康公は将軍職を三男秀忠に譲り、実権を世襲させることを天下に明らかにした。諸大名は驚いたが誰一人対抗するものはなかった。
慶長10年4月の将軍宣下(せんげ)の上洛行列などには、外様の諸大名、譜代大名が連なり、新将軍秀忠に忠節を誓った。その時、大坂城には豊臣秀頼がいたが誰一人ご機嫌伺いに参上するものはいなかった。


家康公は、中央統一政権の主権者は徳川本家が世襲するという伝統を確立させたのである。
また駿府に隠居した家康公は、「江戸の中央政権」と「駿府の大御所政治」という二元政治を展開した。
これが可能で成功した背景にはニ代将軍秀忠の「律義な人柄」があげられている。


元和元年(1615)5月大坂夏の陣で大坂城が炎上し落城、豊臣氏が滅亡すると、家康公は即座に徳川家に対抗する「火種」の摘み取りに移った。

徳川家康公(宝台院所蔵)


駿府を隠居所に決めた家康公は、慶長11年(1606)3月15日江戸を出て20日に駿府に到着した。


そして江戸幕府(将軍秀忠)と駿府大御所政治(家康)のニ元政治が始まった。


この二つの政治権力は相対立するものでなく相互に補完しあい幕府を強化していったが中心軸は駿府の大御所のスタッフ集団だった。


家康公は、まず法律の整備に着手した。大名、禁中(天皇家)、公家、寺社の統制である。

一国一城令の公布

慶長年間は、全国で城郭建設ラッシュとなり、これには家康公は不快感と危惧をもった。そこで慶長20年(1615)「一国一城令」をだした。

これは大名以外の城つまり家臣の城を倒壊させよという命令で、特に畿内以西の城が主な対象になり各地で約400の城が取り壊されたという。

武家諸法度の公布(7月7日)

この武家諸法度の公布は、伏見城に諸大名を集め、起草者の金地院祟伝(こんちいんすうでん)が読み聞かせる形式をとった。

法度(はつと)は13条からなるが「居城の補修の届け出、新城の禁止」「私の婚姻の禁止」など支配強化を目指している。

禁中並公家法度の発布(7月17日)

幕府は17箇条を公表したが「天皇の行為の第一は学問」と定め、公家の任免、武家の官位など宮廷生活の内部まで武家政権が干渉している。

諸宗寺院法度の公布(7月24日)

戦国の世、織田信長、豊臣秀吉は寺院の強大な勢力に悩まされた。そこで家康は法度による宗教政策を打ち出した。
しかし、天皇の権限にあった「紫衣の着用勅許」「上人号の勅許」が幕府の統制下に置かれたことから後水尾天皇の突然のご譲位という抗議に発展した。

しかし結論はうやむやなものになり、公家を統制干渉する武家の図式は程度の違いはあるものの明治維新までつづくことになった。
(引用文献「東海道駿府城下町」(上)・(下))

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