日本が戦国の動乱期にあった頃、ヨーロッパのスペイン人、ポルトガル人らは大洋に船出し「大航海時代」が幕を開けた。
当時、西洋人から見た日本は謎を秘めた地理上の空白地であった。この日本をマルコ ポーロは「東方見聞録」で「黄金の国ジパング」の黄金郷として紹介し冒険者らの夢をあおった。
天文12年(1543)ポルトガル人が九州の種子島に漂着し鉄砲を伝え、これにより戦国の戦術が一変した。また天文18年(1549)にはフランシスコ・ザビエルによりキリスト教の布教が始まり、鉄砲とともにすばやく全国に普及しはじめた
こうして大航海時代のアジアでは、スペイン、ポルトガルをはじめイギリス、オランダ、フランスなどの国際戦略と外交が激しく渦を巻き、当時事実上の日本の首都駿府はアジアの中でも重要な政治外交都市になっていった。
今の静岡市の町角から「駿府大御所時代の都市像」は想像できないが、海外の宣教師らの古記録からは、想像を絶するスケールの大きさが伝わってくる。
当時フィリピンを占領していたスペインの総督ドン・ルイスは、豊臣秀吉の死後に 「関東の国王家康は、日本最強の諸国王の一人で、関白秀吉の後継者になるであろう。」と後継者の総督に伝えた。
スペイン商人のアビラ・ヒロンは「駿府に隠居した家康を 日本の領主は隠居するという習慣があるが、今の国王(徳川家康)は、王子がすでに35歳を越える大人であるが、依然として国王自ら統治している。」と著書「日本王国記」で述べている。
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| 東海道図屏風(静岡市教育委員会蔵・部分) |
また慶長14年(1609)に駿府城で諸大名に謁見する家康公を見たスペイン人ビベロ・イ・ベラスコは 「家康は大名の贈答品である金の延べ棒や絹の小袖に目もくれない。
大名は家康閣下の王座から百歩も離れたところで平伏し、目も上げずに退出して行った。 」と大御所の様子を報告している。
その後、スペイン領フィリピン臨時総督になったドン・ロドリゴは著書「日本見聞録」で 「皇帝(家康)は世界の裕福な君主の一人で、諸都市は人口も多く清潔で秩序正しく、街路は幅広く直線で、スペインに優る。
銀の鉱脈も多く、金もその質が非常に良い。 」と日本観を述べている。
大航海時代とともに、諸外国の使節が相次いで、駿府の家康を訪問した。この時外交顧問になっていたウイリアム・アダムスは、家康のブレーンとし大活躍した。
オランダ国王使節の訪問
リーフデ号の遭難(1600)から5年後、船長らの帰国が許されたが、アダムスはオランダ国王へ「貿易をする意志」という家康の信書を持たせた。
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| オランダ外交文書(駿河古文書会複製) |
日本国皇帝家康への返書は、慶長14年(1609)平戸に入港したオランダ船がもたらした。
8月15日駿府に入ったオランダ国王使節ジャックス・スペックスは、一日待たされて17日家康に拝謁できた。
その結果、日蘭の外交と貿易の交渉は成立し、外交朱印状の発給をえて、平戸にオランダ商館を設立した。
このオランダ商館は、後に長崎に移転するが幕末まで存続し、鎖国時代に常設された唯一の海外交易と情報窓口となった。
この外交朱印状の現物は、オランダの国宝として保存されている。
同行した上級商務員ニコラース・ポイクは「駿府旅行記」を残している。
その後、オランダ側は、「オランダ船については、日本の役人から荷物の監督や干渉されることなく交易できる」ことを、アダムスを通して家康の約束を得た。
アダムスは英国人であり、オランダばかり支援していたのではなかった。アダムスは機会ある毎に本国の英国に書簡を送り、皇帝家康が貿易を望んでいると書いた。
アダムス待望のイギリス国王使節ジョン・セーリスの乗ったクローブ号は、慶長18年(1613)平戸に着いた。オランダより遅れること4年だった。セーリヌは、伏見まで船で来たが、それ以上は風向きで無理となり、陸路で駿府に向かった。
英国の国王ジェームズ一世の国書は、8月4日駿府城で奉呈されたが、アダムスが平仮名に翻訳、それを金地院祟伝が和漢混交の文体にし、本多正純が家康に手渡した。この国書は英国大英博物館に現存する。
この拝謁で家康は、関心事である「北方航路」について世界地図をもとに質問したが、セーリヌは「イギリスは、この航路発見のためには金を惜しまない」と答え家康の歓心を得た。
その後、平戸にイギリス商務館が開設され、家康は大坂・夏の陣の準備で膨大な銃砲、大砲、鉛や火薬を買いつけたという。
だが、イギリス商務館は、営業不振で元和9年(1623)に閉鎖された。
スペインはコロンブスの新大陸発見を契機に海外進出し、太平洋を越えマニラ(フィリピン)に植民地をつくった。
1609年(慶長14年)7月、マニラを出帆しメキシコに帰る3隻のスペイン船は暴風雨にあい難破し、フィリピン総督ドン・ロドリゴを乗せた船は千葉・田尻に漂着した。
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| アダムス、家康の命で船を建造 (「STEP」(1992)より) |
かねてよりスペインとの交易を望んでいた家康は、この偶然から総督らを駿府城に連れてくるように命じた。
江戸城を訪問後、駿府城で家康にあったロドリゴは、「ドン・ロドリゴ日本見聞録」で
と記録している。
会見でロドリゴは、スペインが日本と親交を深める意思のあることを告げ、一方ではオランダ人の追放を求めた。
家康は「彼らの暴状を知りたるは、将来のために喜ぶところなり」(異国日記)と追放にはふれず、政治力に富んだ返答をしている。
そして家康は、銀の精錬に通じたスペイン技術者50人余を派遣してくれるよう強く要望した。
その後ロドリゴは、幕府船(アダムスが建造した120トンの帆船)でメキシコに帰ったが、家康は商人田中勝介以下22名の「大御所派墨使節」を乗船させた。日本人使節団の初渡航である。
慶長16年(1611)、スペイン国王使節セバスチャン・ビスカイノは、メキシコのアカプルコから太平洋を横断し浦賀に着き、駿府城で家康に接見した。
スペイン側は多くの品を献上した。
(献上品の一つ、家康が使用した南蛮時計は今も久能山東照宮博物館に国の重要文化財として現存している。)
またビスカイノは交易と日本沿岸の測量の許しを求め許可された。
一方外交顧問のアダムスは測量に反対し、「スペイン人の測量は日本植民地化のための事前調査」と家康に進言した。
こうしたことから家康はスペイン人に不信感をつのらせ、外交政策はオランダとイギリス重視に傾いていく。
これに対しビスカイノは奥州の伊達政宗に接近し「慶長の支倉遣欧使節団」を連れて帰国したが、スペインの2人目の大使は、家康にも会見できず帰国した。

<静岡新聞の記事引用>
「時の記念日」であった平成12年6月10日、久能山東照宮で、徳川家康公愛用の南蛮時計の音色を聞く会が開かれた。
そして420年の時を超えて、美しい音色が会場に響きわたった。
この時計は、当時のスペイン国王のお抱え時計師ハンス・デ・エロバが製作したもの。
エロバの製作した時計は、スペインのエル・エスコリアール宮殿と久能山東照宮しか現存しておらず貴重である。