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大御所のスタッフ


そのスタッフは、門閥、閨閥にかかわらず内外から優秀な逸材が集まり、スタッフは頭脳集団と行動集団を兼ね備え行動したのである。

本多正純(1565〜1637)

駿府大御所政治の中心人物。家康は正純(まさずみ)に特別な信頼を寄せ、家康が腐心した大名統制や奉行間の抗争にかかわり総括した。江戸城、駿府城などの「天下普請」にも深く関わった。
来日の使節団からも評価され「外交内政顧問会議長」とまで呼ばれた。

正純の父本多正信(まさのぶ)は、この頃江戸幕府の重臣であり、親子で二元政治を切り盛りし幕府体制の確立に尽力した。

駿府城の巽櫓

後藤庄三郎光次(生年没年不詳)

駿河墨書小判
(日本銀行貨幣博物館蔵)

後藤庄三郎光次は、京都大判座の後藤徳乗の弟子である。

家康に招かれ駿府の金座・銀座を支配し、「駿河墨書小判」などを発行し、大御所会計の出納長であった。
後藤は外交にも明るく、また大阪冬の陣の講和にも活躍し、宣教師らから「財務顧問会長」と呼ばれた。

駿府時代の後は江戸に銀座を開き、「銀座」の名を残した。

角倉了以(1554〜1614)

京都の豪商で朱印船貿易のかたわら、独自の治水工事を成し遂げたテクノクラートである。
慶長12年(1607)富士川を開削して、高瀬舟を使い、岩淵から甲斐国鰍沢までの舟運を可能にした。

天竜川では、信濃国諏訪から遠江の掛塚まで浚渫し通船の便を図るなど、各地の河川治水にかかわり名を残した。

大久保長安(1545〜1613)

元は武田家の家臣といわれ、猿楽師の息子ともいう。
鉱山開発技術に抜群の才能があり、慶長8年(1603)ごろから家康に命ぜられ、佐渡金山の経営を任され、彼は南蛮技術の産金法で金銀の増産に成功した。
その他伊豆大仁、秋田院内、安倍金山、石見銀山などでも金銀の増産に励み、幕府の金蔵をいっぱいにしていった。

佐渡金山金堀之図(国立公文書館内閣文庫蔵)

家康公の銅像

茶屋四郎次郎(初代、三代)

初代の茶屋四郎次郎は、京都の豪商で三河以来のご用商人であった。

特に本能寺の変に際し、家康に「伊賀越え」を進言し、功があった。

また情報網を持つ政商として活躍した。
三代目も呉服商の他朱印船貿易を営み、父親と同じように京都の情報を伝えていた。

天海僧正(〜1643)

天台宗の僧侶で大御所政治の宗教顧問である。
京都方広寺の鐘銘事件で、無理難題を大坂方に押し付けた立役者であった。


また家康の死後の神号を、「大権現」か「大明神」かで大論争となり、金地院崇伝を論破したことは有名である。

金地院崇伝(1569〜1633)

臨済宗の僧侶で黒衣の宰相と呼ばれ宗教政策の他に、法度の制定に深くかかわった。

「寺院法度」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」などは、学者を動員して古今東西の法度を精査し、つくりあげたという。

またキリシタン問題が大きくなるとその対策にかかわり、慶長18年(1613)の「伴天連追放之令」は、一夜で原稿を仕上げたと言われている。

(引用文献「東海道駿府城下町」(上)・(下))

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