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駿府城築城史

今川期の駿府

「駿府」の呼称は「駿河府中」の略称である。
足利幕府は、建武五年(1338)今川範国に駿河国守護職を命じたが、範国が駿府に入れたのは至徳元年(1384)頃と思われる。
それ以来今川氏は駿府を領国経営の中心とし「館」が設けられた。
「駿府」は、西の大内氏の城下町「山口」とともに小京都といわれ繁栄した。
駿府は、今川氏滅亡で武田支配下になったが武田氏の敗北で、徳川家康公の時代になった。

最初の築城

天正一八年(1585)家康公は駿府に入り近世的な築城を始めた。その後、家康公は江戸に徳川幕府を開き、天下統一の基盤を固めた。

慶長十一年(1606)3月、駿府を隠居の地と定め、翌年から駿府城修築の命を出した。
慶長十二年七月、早くも本丸部分が落成し、家康公が移り住んだ。

しかし、十二月奥女中衆の手燭台の火で、ことごとく焼失した。

駿府城の東御門

駿府城の再建

直ちに城再建の命令が下る。「台徳院殿御実紀」は「・・・・・京より工匠雲霞のごとく駿府に下る。・・・」と記している。天下普請の再開である。
八月、ついに天守の上棟式が行われた。天守は「七重」(内部七階)で、破風は銀で飾り、黄金の鴟吻をのせていた。しかし、慶長十四年(1609)六月放火事件が起るなど火災が多く起き、お城では工事がつづいた。

元和二年四月一七日(1616)、徳川家康公は他界した。

寛永十二年十一月(1635)、町中の火が城中に移り、天守、殿閣などことごとく焼失した。

その後の築城


それから三年後、ようやく再建の命が出た。しかし、再営の規模は縮小され天守は再建されなかった。
その後大きな修理も行われず、城は荒れていた。
安政元年十一月(1854)、大地震により本丸、御殿はすべて倒壊した。

本丸堀と二の丸堀を結ぶ水路


明治以降の駿府城跡

大政奉還の後、明治元年五月(1868)、徳川家達は、七十万石を与えられ駿府に入る。


翌々年「駿府」は「静岡」と改称された。



明治二十四年、駿府城跡は静岡市に払い下げられたが、静岡市は軍隊誘致運動をした。


そして、明治二十九年(1896)、歩兵第34連隊がきたが、この時、天守台の石垣を壊し堀を埋めて兵舎がつくられたのである。

戦後は、昭和30年代に都市公園となり「駿府公園」として、静岡市民に親しまれている。

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