駿府の人口の推移
大御所家康公が駿府に君臨していた時代は、人口10万人とも12万人ともいわれ、江戸(15万人)、京大阪に次ぐ大都会だった。
家康公没後は一時、徳川頼宣(よりのぶ)、忠長(ただなが)が駿府城主になったが、忠長の乱行による改易後は、再び城主は置かれず城代が配属され「城主なき城下町」になっていった。
駿府九十六か町の人口
| 家康在城当時 | 「ドン・ロドリゴ日本見聞録」 | 約12万人 |
| 家康在城当時 | 「ビィベィロ日本見聞録」 | 約10万人 |
| 元禄 5年(1692) | 「駿府町数並家数人数覚帳」 | 17,067人 |
| 正徳 5年(1715) | 「夫食拝借願」 | 15,527人 |
| 享保 7年(1722) | 「駿河国雑志」 | 17,090人 |
| 宝暦12年(1762) | 「駿府広益」 | 16,163人 |
| 嘉永 3年(1850) | 15,724人 |
元和2年(1616)、大御所家康が歿すると、駿府と江戸のニ頭政治時代は終焉を迎え、人口の推移に見られるように駿府は昔ながらの中都市に縮小していった。