■ 少年期の家康公と駿府
家康公は、三河国の国人松平広忠の子として、天文11年12月26日(1543年1月31日)愛知県の岡崎城で生まれた。母は水野忠政の娘於大の方で、幼名は竹千代といった。
幼くして母と生き別れになったが、さらに5歳の時、父広忠は駿河国の今川義元に帰属したため、竹千代は人質として駿河国の府中へ送られた。その途中、謀略により、尾張の織田信秀勢に身柄を奪われて、そのまま尾張で、2年間を過ごすことになる。その後、竹千代は人質交換によって駿府へ移され、駿府時代が始まった。
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| 駿府城の復元(葵博) |
竹千代は、駿府の義元の下で元服し、義元から元の字の偏諱(いみな)を受け次郎三郎元信と名乗り、義元の姪である関口親永の娘(築山殿)を娶るが、岡崎への帰還は許されなかった。
当時の駿府は非常に先進的な文化都市であり、ここで都市型の教養を身につけたことが後の全国制覇に大きく役立ったという。
また、当時駿府には実の祖母である源応尼(於大の方の生母)が居住しており、実際にはこの祖母の屋敷で少年時代を過ごしていたとも言われている。
更には今川義元も自分の姪を家康に嫁がせるなど、新しい親族として期待していたという見方もできる。後に家康公が隠居地として駿府を選んだのも幼少期にそれほど悪い生活をしていなかったことの現れであろう。
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| 臨済寺 |
また、今川義元の軍師太原崇孚(雪斎)は人質として今川家に養われいた竹千代を教育したともいわれ、臨済寺には「家康公手習いの間」といわれているところがある。
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